ドキドキしちゃう

ダメな人の自己愛ドライブレコーダー

世界のネカフェから  ブログのメイン。管理人の見た世界の不条理。
ツイッター   ゆるふわ日記。思考回路オープンソース企画。

死ぬとかそういうことって。

死ぬって何。
なんか小学生みたいな疑問ですね、ちょっと文字にしてみたら恥ずかしくなりました。

いえ、間近で見てみたら、よくわかるのではないかと思っていた節があったのですが、結局よくわからなかったです。というか、わかるものではないという当たり前のことがそのままだったというほうが近いです。
蝉の死骸が廊下に落ちている、とか、猫が車に撥ねられて道路に、とか、そういうことと、人の死はまー言っちゃえば結局同じもので、何か見て新しくわかるような代物ではなかったと。

父親は、普通に、死んでいきました。
お医者さんの話だと、昏睡状態になってから一週間くらいでしょうということでしたが、実際は、ちゃんと意識が当日まであった。
母が看病しているのも、私が来たのもわかったし、私は言葉こそ交わせなかったけれど、目で会話をした。CDをかけた瞬間、「おー、お前これ持ってきたのかー」みたいな平和な会話。多分ですが。
母が夕食を食べに外出している間、病室にひとり残っていた私はまさかその二時間後亡くなるとは思いもせずに、でも自力で自分の体を支えられなくなった父をまっすぐに押し戻しながら「あーもうこれはいよいよだな」なんてぼんやり考えていました。
呼んでもろくに反応が来ないし、目も虚ろで焦点めちゃくちゃだったし。
看護婦さんが血圧がなんとかと言いながら慌てて入ってきたときも、「もしかしてヤバいっすかねー」的な悠長なことしか言えなくて、というか思わなくて

「すぐ来て」と危篤を知らせる電話も私の声がのんびりしているせいで相手全員苛々したそうですwごめんね。

母が慌てて戻ってきて手を握ったり呼びかけたりするのも他人事みたいに思ってしまって、そのまま。
父親の呼吸があるのかないのかよくわからないまま、時々口から血がごぼごぼ溢れ出るのをひたすらティッシュで拭って、そのたびにナースコールをおして吸引処置してもらって。最期の方は私が手を握っても返してはこなかった。

そんなこんなしているうちに、心電図の動きが止まりました、と看護婦さんが報告に来て下さって、父が亡くなったことを知った。
母や妹はドラマの「ご臨終です」シーンよろしく、わっと泣き出していた。
ここで私も「わっ」てやらないとその事実がのちのち自己嫌悪のネタになってしまうんだろうか、という余計な考えだけでなく、
誰かの結婚式での参列者(友達)の台詞「せっかく感動しても他に泣いている人が同じテーブルにいたら泣けないよね~早い者勝ちでズルいよねw」が思わず再生されて本当に自分勘弁してよとか
あーあーあーーー全く。

その20分後お医者さんが来て、瞼をひん剥いてライトを当てるとかいうパフォーマンスをしてそれが死亡時刻になった。死亡時刻って、そういうことじゃないと思うんですけど、そういう決まりなんですね。
もっと言えば、死因だって、
担当医曰く、臨床所見はどう見ても肝臓がんだけど、データ上では証拠が出ていないので肝硬変にせざるをえない、解剖すれば分かりますが…と。
解剖は母が拒否したので、結局死因は肝硬変で、心臓の止まった20分後が死亡時刻になりました。

意識がないことを死ぬというなら、もっと死亡時刻は1時間も前だったのだろうし、
心臓がとまったことを死ぬというなら、20分前だったんだろうし、
死ぬって何なんですかね。
そのまま、生命活動が終わることだと思っていました。
今もそう思っています。
それはそれで、やっぱりそのままだと思います。
確認も何もすることなんかではなくて、そのまま、私は父親の死に立ち会いました。
それが臨終という言葉の意味そのままなのだなと自分なりに納得もしました。
(いやぁ、トイレ我慢してて良かったわー)

父はあまり苦しまずに家族に看取られ静かに逝ったことになっています。

血ー、ごぼごぼ吐いてましたけど・・・腹水が6リットルもたまって、めちゃめちゃ苦しそうに見えたんですけど・・・
今はもう告別式も何もかも終わったのですが、もう少し、父の最後について何か書くかもしれません。