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ダメな人の自己愛ドライブレコーダー

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じゃあコミュ障とは一体どんなものかしらと考え始めた

普段から、はいはいあたしコミュ障でーすという自己紹介を限りなく前面に打ち出しているレモンちゃんですが、一応というか社会適応について問題意識というものをまだ持っていますのでこういう記事があると読みます。
コミュニケーション能力とは何か - grshbの日記

非常にわかりやすい。うんうんうんと面白く読んだ。

そう、コミュニケは、自分が生き残るために行うものであるから、自分以外の情報を勝ち得ること一番大事あるね。
「人の話を聞け!!」
せっかく○○さんが君に有利になるよーに情報公開して“くれている”のにそれをどうしてありがたく・・・!

ありがたい情報をありがたーいと受け取らないのは、自分にはその必要がないと(どーでもいいと)思っちゃっているからで、、

自分にとってその人の情報がどういう意味を持つかを知るには、
自分がどういう人間でどうしたいのかというところをちゃんとわかってないといけない。
孫子じゃなくても己は知っておいたほうがいい。

そう、敵を知るの重要性はリンクの記事にすごくよく書いてあるので、そっち読めばよしとして、私は己を知る方も同じくらい大事だという話を書いてみようと思う。
(そして、そういう己って誰かというのは、“今この頭の悪そうな文章を打っている自称私でHN電気レモンとかいうひと”からすると十分に他人だと感じる。誰この人、←自分でしょ!←そうだけどでも・・・!)
勿論というか当然歴史関係や状況証拠を含めて自分の情報は自分が一番よく知っているから、どういう人間かっていう推測は可能(しかし簡単とは言えないかもね)
自分が誰かということを知っていないとその他の個体について知ってもその情報を自分に有利に使えない。
自分は己の代理人だから。

(自分さんも大変ですよねーあーそーなんですよー全くスペックが低いひとに憑くと苦労しますよねーまあまあそれだけやりがいもあるってもんじゃないですかーまたまたひとごとだと思ってーwww)
   ↓
★相手の情報を活用する前提には自分について知っている必要があると思う。

【コミュニケーション能力=他人の行動確率を変化させて自分にとって適応的な状況をもたらす能力】 - シロクマの屑籠
そしてコミュニケの定義はここにあった。膝をうちすぎて痛い、嘘だけど。

“行動学で言うコミュニケーションとは、他個体の行動の確率を変化させて自分または自分と相手に適応的な状況をもたらすプロセスのことである”
ジャレド・ダイアモンド長谷川寿一訳『セックスはなぜ楽しいか』草思社,1999,p.205-206より抜粋

 ★他個体の行動の“確率”を変化させることがコミュニケーション。
そして、このクマの先生の言葉そのままだが、(自分にとって)「適応的な状況をつくるプロセスの実行機能」がコミュニケーション能力。

 

コミュニケーション障害 って何。
障害 = 機能が働いていない状況を指す言葉。
cf: 腎機能障害 =腎臓の働きが弱っている状態
なお、この障害を超えて全く働かなくなっている状態は「不全」と呼ばれる。
心臓の障害が進む → 止まった = 心不全 
心不全とかって全然病名じゃないからね。ただの状態。

★コミュニケーション不全 = (自分にとって)適応的な状況をつくろうという意思がそもそもない状態
★コミュニケーション障害 = (自分にとって)適応的な状況をつくるプロセスの実行機能が思った通りに動かせていない状態 
と言ってみる。

   ■

ここで問題:コミュニケーションの失敗はコミュニケーション障害か。
前提として、コミュニケーションに失敗はあるかを考えてみよう。
これはある。もちろんある。よね。

<例えばラーメン屋>
自分に適応的な状況(=水が自由に飲める環境)をもたらさんがため店員さんにこう話しかける。
私「あのー、お冷ください」(= 忘れてない?)
店員「当店はセルフサービスとなっております」(= 忘れてません。あんたが周りを見ていないだけ!= うちの店は文化が違います)
この局面だけ切り取れば私のコミュニケーションは失敗しています(忘れてましたスミマセンとお冷が出てくるという予測は崩れる)
 がー
私「あっ、すみません」人の話を聞くことで、セルフサービスを理解し、水を飲めるようになった=「お冷ください」と言った結果自分の欲求を満たす環境を構築できた

   ↓
★コミュニケーションの失敗があっても人の話を聞くことで挽回可能。すなわちコミュ障であるとは言えない。

   ■

じゃあ:どういうひとがコミュ障なのか。

もちろん理想は、店員の「当店はセルフなんです」の呪文を聞くことで、私の幻想が解けること。
しかし、私が人の話を聞かなかった場合を考えてみる。
「当店は・・・です」という言葉が理解できないのだ。え、予想に反してなんか言われたよ、とだけ思う。

①「え?よく聞こえませんでした」もう一度チャレンジ
②「ふざけないでよ!客に水を持ってくるのは当たり前でしょ!!」私の要求を無視してなんか言われた位の被害者意識
③なんか言われたけど意味がわからないので黙る。

①もちょっとあれだけど、(相手は相当苛々するでしょう)
②では、ひるんだ店員が水を持ってきてくれる確率も少しはあるかもしれない。しかし双方嫌な感じは残るし、自分にとって嫌な環境の構築がされてしまう確率が高い。
③は本人がコミュニケーションを放棄したケース。お話にならない。諦めれば勿論水は飲めないままだ。

②③あたりに代表される状態、つまり自分が意図しない環境を構築してしまう状態をコミュニケーション障害と呼ぶのだろう。

②③に共通しているのは、「人の話を聞いていないうえに聞く意思もない」ことだ。
①は理解できていなくても「人の話を聞く意思」がぎりぎり存在している。

②と③の違いは何か。
②は「お前の話はどーでもいいんだ、とにかく水を出せ」これは内容はともかくとして「私は水が欲しい」という内容の自己紹介の形になっている。
③は「水が欲しい」という自分を外形に説明(自己紹介)できていない。これは自分に自信がないのかなんなのか、自分がマジで水が欲しいということを自分であんまりよくわかっていない場合だ。
   ↓

★人の話を聞くこと(情報収集)と、自分について説明すること(自己紹介)が良好なコミュニケーションの成立には両方必要。

★自己紹介が出来ない=自分が誰だかわからない状態はそれだけでコミュニケーション不全となるリスクを含む。


だから己を知るのもやっぱり大事だと思います。
(己を知った結果、やっぱりそんなに水なんかいらないや、となってたらいいけどさw)

   ■■■

くどくどと話してみたけれど、、、だからどうしたという話でもあるんだけど、
「コミュ障でーすという自己紹介」はそれ自体論理矛盾している。知ってましたスイマセン。

確か先週のSPA!に最近の20代がコミュ障や童貞・処女というネガティブワードをネタにしているひとが多いという記事があった。
コミュ障という言葉を免罪符にして周囲に大目にみてもらおうというのは、良し悪しはともかく自分に最適な環境を構築するためにこういう自己紹介をしている訳だから、実態としてそのひと自身のコミュニケーション能力が低いという訳ではないケースが多いはず。
(なんだかんだその年齢までサバイバルしている訳だし、)
「コミュ障」という言葉は「飲み会嫌い」「意味のなさそうに見える会話が面倒」とかそういう現代的でかつまだ旧態依然とした社会の中では口に出すことをはばかられる本音をうまくカモフラージュしたものにすぎないんだろう。
あうんの呼吸で
「コミュ障でスイマセン」
「あーそうなんだー」
という和やかなコミュニケーションを図るための言葉として便利に使っていけばいいし、そういう会話がうまいこと成立しているのなら少なくともその時点では何の問題もない。





実際自分のコミュニケーション能力のうちの具体的なパラメータについてもう少しなんとかならんかと思ってしまうのは事実として、、特にもっとわかりやすく話せる能力が欲しいものですあたまよくみえなくてもいいからあたまよくなりたい(泣

眠くなってきたし続きはまた今度考えてみる。と思う。