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【映画の感想文】アメリカン・スナイパーを見てきました。

映画『アメリカン・スナイパー』予告編 - YouTube

アメリカンスナイパーを見てきました。
もうロードショーからだいぶん時間がたっているのにどこの映画館も激混み。イーストウッドはさすがです。

以下、これでもかとネタバレしてます。

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「米軍史上最多、160人を狙撃した、ひとりの優しい父親。」
「彼は帰ってきた。心は戦場においたままで。」
「国を愛し、家族を愛し、戦場を愛した男」
「この男、英雄か―― 悪魔か―― 伝説的スナイパーの半生を描いた、衝撃と感動の実話」
キャッチコピーを並べていたらなんだかおなかいっぱいになってきましたが、そういうお話です。
評 価が分かれているようですが、特に戦争への賛美とは思いませんでした。賛美ととる感覚はちょっとわかりませんが、反戦かどうかは、映画を見る人によって変わってくるかもしれません。私は映画やド キュメンタリーの報道にたまに触れる程度で、実際の戦争体験には非常に乏しいので印象論にはなりますが、なかなか戦場というものの現実を丁寧に描いている 映画に見えました。

アメリカンな主人公
主人公である伝説的スナイパーは、テキサスの田舎町で保守的な父親によって教育されました。
教育の骨子は「人間には3種類いる」というものです。
三種類とは、羊、狼、狼から羊を守る番犬です。
羊 は自分に危険が迫ってものほほんとしている無垢な存在、狼はそのまま敵、番犬は狼から羊を守る存在です。誰がどう考えても番犬が一番カッコイイです。少年の主人公もキラキラした目で「そうか、僕は番犬になる男か」と理解します。では誰がその番犬を飼っているのでしょうか。

主人公は、聖書をいつも胸にしまっています。なのにそれを実際に読んでいる姿を見たことがないと揶揄されます。そこに疑いをはさむ余地がないので、読む必要がないということでしょう。
大事なものを問われて主人公は迷わず答えるシーンがあります。
「神、国家、家族だろ?」これが、番犬が仕えるべき、そして守る対象なのです。


ツインタワーに飛行機が突っ込む映像をみて、羊である家族を守るために、大事な国家を攻撃してきた狼を撃退するため、番犬である主人公は戦場に向かいます。
第三国の観客である私は、ちょっとどういう論理かついていけなくなりました。なぜ攻撃を受けたかとかそういう視点が完全に抜けています(もちろん演出でしょう)

しかし、彼が守ろうとした家族=妻は羊ではありません。人間です。
彼女は妻の自覚は強いですが、自分が羊だとは思ってません。彼女は彼と付き合う前は、傲慢な人間が嫌いだと宣言していました。自分を選ばれた人間だと思い上がって周りをバカ(羊)扱いするような男であれば結婚は考えられなかったのです。特殊部隊に所属する主人公は「そいつらとは別だ」といって彼女と結婚します。彼の番犬だという自覚はきっと無意識に沈んでいたのだと思います。そうでなければ詐称になってしまいます。
彼は自覚的にもよき夫、そしてよき父親でした。周りからしてもそう見えていたでしょう。しかし、狼の襲来をトリガーに、彼は番犬になってしまうのです。

主人公は4度戦場に向かいますが、行くことについては特に個人的な葛藤は持ちません。「行かないで」と妻に泣かれても、特段なぜ行かねばならないのか説明は出来ないのです。番犬であることは彼にとってしみついた無意識だったのです。


田舎の保守思想は現代アメリカではもはや通用しない
彼は日常に還ってくると表面上はよき夫(人間)に戻りますが、妻に言わせると「心が戻ってこない」ということになります。
葛藤は、潜在的なものとして描かれているのです。

沈んだ葛藤が表出するシーンがあります。
主人公が「誰も戦争を知ろうとしない」と愚痴をいうのです。
国が狼に襲われていると言うのに、一般市民はのうのうとアメリカンライフをエンジョイして、ニュースすらイラクの戦場の様子を伝えようとはしない、そういうアメリカ国内の現実に彼は苛立ちを覚えます。
ガチの番犬であれば、羊はそもそも自分の平和や安全の情報にはノータッチで、それをうんぬんできるのは番犬だけなのだから、羊がそれを知ろうとしないのは当然なのに。
それは違うだろう、という彼の疑問が葛藤であり人間の証明だと思います。
しかし、彼が戦場から帰る度、それは色をなくしていきます。おしまいには、精神科医に「神に対しても今までの殺しの正当性を説明できます!」と虚ろな目でよ くわからない主張を始め、「戦場にあるのはただただ、死だけであった」という亡くなった同僚のリアルの声を「ふぬけ」よばわりするようになっていくのです。


妻は当然それを理解できず、「心も戻ってきて」と泣き、「敵から守るためだ」と説明になっていない説明を聞いて「くだらないわ」と否定をつづけます。見捨てることなく。
主人公は家庭に居場所を見つけられず、職場(戦場)に憑かれたようにいってしまう、という夫婦間のミスコミュニケーションと、その問題から逃げることなく夫に向き合った妻の物語とみると、非常に感動的な側面もありました。


イラク戦争を描いたわけではなさそう
しかし、この映画、イラクのひとは「野蛮人」とされるばかりで(アメリカ市民だって知性のない羊呼ばわりだから野蛮でも人間であるだけマシかも、というのは冗談)ちょっとイラクのひとが見たらどう思うのでしょうかという面もあります。アメリカ軍の兵士にとって、イラクの民間人は守るべき存在ではなかった、そういうのもバレバレです。

人間は三種類のうちそれこそイラクの民間人はどれだったんでしょうね。守るべき羊ではない、自分の敵ではなく、撃ってはいけないのはルールだから。狼退治の障害となるゴミみたいなものなんでしょう、ひどいです。

ひどいのだけが妙にリアルです。

例えば、イスラムは絨毯の文化で、日本同様室内での土足は基本禁止です。
日本と同様、玄関には下駄箱があって靴を脱ぎます。踏絵じゃないですが、靴で踏むことはけがらわしいこと=侮辱です。こんなニュースも記憶にありました。

www.afpbb.com

そんなイラクの民家にアメリカ兵がドアを蹴破って御用改めじゃ!とズカズカやるわけです。現地のひとにとってはアメリカ兵は悪魔です。当たり前です。その悪魔が汚い土足のまま高級絨毯を蹂躙するシーン、

そういう悪業を悪業として描いていたので、賛美とはやっぱり取れないです。

(ひょっとしたら土足OK文化圏のひとたちはなんとも思わない行為と映ってしまう可能性がある、のか、、、?)


ちょっと深読みしちゃったシーン

劇中、主人公の天敵でありライバルであるシリア人の凄腕スナイパー(ライバルにふさわしく無駄にカッコイイ)がいるのですが、彼にも彼の妻子があり、過去の栄光があり、人生がある――それはいんですが、イスラムの女性だって室内ではヘジャブ(ベール)被らないからー!あれは夫以外の男性のエロ目線対策なんだってばー!中東美人の普通は見れないオシャレインナー姿が堂々見られるはずのシーンなのになんともったいない

下手したらあのシーンは主人公の妄想を映像化した可能性もあります。だから妙に彼の妻子の存在も現実感のない描き方にしていた、とか。狼は唯一自分とタメはれる人間だから、という意味で。

不意打ちなのに民家に隠れていた女性陣みんながみんなよそ行きのヘジャブ(ベール)被ってたりするのでこれは考えすぎなんですけどね。

まったく余談ですが、冒頭のイスラム女性がチャドルの下に爆弾を隠して寄ってくるシーン、本当にね、マジでチャドルはなんでも隠せて便利なんですよね~ スナイパーとしたらあっちの女性って相当怖かったんじゃないかなと思います。民間人を撃つにはかなり厳しい根拠がないと軍法裁判にかけられる、らしいです。そうしてくれないと民間人としては困りますっ けどっ、、



感想まとめ

だらだら書いてしまいましたが、
物語全体を通して特段イラクのひとを(狼役のテロリスト”虐殺者”は別として)軽んじた印象は受けないまでも、イラクでなにが起こったかは主人公の印象さえ描ければ、という感じでした。

シリアのスナイパーがなぜテロリストに転身したかということも疑問は出るのに!示唆されることはありません。そこを突っ込むとアメリカの戦争開始の正当性が ひっくり返る危険性が濃厚というか、番犬である主人公にはあえて考えさせなかったと捉えました。

つまり、この映画 の主題は、イラク戦争がどういうものだったのかではなく、戦場にいったある兵士の人生であり、のちのちPTSDに苦しむ姿、戦場から日常になかなか還れない苦しみ、それから“人間”に戻るにあたって家族のサポートがいかに重要となるかであって、あくまでもアメリカ国内向けというかアメリカ人のための映画だなと思いました。



イーストウッド監督はイラク戦争には反対していたそうですし、主人公にはもう少し西部劇脳から離れて番犬であることの正当性を疑う可能性というものに辿り着いてほしかったです。最後のネタバレはやめておきますが、ちょっと、救いのないラストでした。