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カミュ「ペスト」を読んだり感情移入してみたり(読書感想文カロリー1/2) 

みなさんこんばんは

世界のペストのお時間ですよ~(そんな時間嫌ですね)

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

 

 今回感想文という形としてまだまとまってはいません(爆)が、とりあえずお気に入りシーンの紹介という形にしてだらだら書いてみました。

 

さてさて今回もWiki先生を召喚します。このおはなしについては、あらすじより、概略のがわかりやすい。

アルベール・カミュが書いたフランスの小説。出版は1947年。ペストに襲われたアルジェリアのオラン市を舞台に、苦境の中、団結する民衆たちを描き、無慈悲な運命と人間との関係性が問題提起される。医者、市民、よそ者、逃亡者と、登場人物たちはさまざまだが、全員が民衆を襲うペストの脅威に、助けあいながら立ち向かう。

ペスト (小説) - Wikipedia

 
舞台設定はアルジェリアのある街に、ペストが流行って住民がバタバタ死んでしまってさあ大変・・・
はじめはそのこと(ペストの出現)に気づきすらしない群集心理がパニックに陥ったり思考停止したり、それと並行してそれなりの日常も淡々と営まれ・・・という感じで年代記風に淡々と書かれていて、結構こあかったりもします。
災害ということで、東日本大震災の経験が被って色々と思いだしたり、考えさせられるシーンも多い。正直ですね、どの局面について感想文書くかからまず迷ってしまいます。読みがいがあるとはこのことですねー、おすすめですよー。

※例によってネタバレが甚だしいので以下隠します。

 

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本日の登場人物紹介。

  1. リウーさん。医者。主人公(といっていいのかはわかりませんが、このひと中心に物語は進行していきます。)このひとは大人そのものというか、単独者の生き様という奴を背中で語る系というか、とにかく出木杉君です。多少ココロの揺れなどもあるのですが、それを決して表に出すことはせずに超冷静に自分のすべきことに医師として向き合います。そして(後述しますが)やさしい。かっこいいの一言です。憧れにはなっても、私には感情移入の余地はありませんw
  2. アウトサイダーのタル―さん。タル―さんは、旅行者でたまたまこの地を訪れている。住民の観察日記をつけている根っからの異邦人。自分で何かできることはないかと考えた末、リウーさんとともに保健隊を結成しちゃうように実行力に溢れた人。こちらはある意味でリウーさん以上にガチの単独者かと踏んでいます。
  3. ランベール君。フランス人の青年。たまたま取材でこの街に来た新聞記者。ペストで封鎖された街からどうにか逃げ出して恋人の待つパリに帰りたい。フランスだけに恋愛至上主義!彼女に会えないのがツラすぎて、どうしたら関所を突破できるかアングラな方法まで手段を選ばず探し回って苦労している。ペストと対峙する医者リウーさんを尊敬していて、保健隊の活動に協力していない自分を少し後ろめたく思っている節がある。


そして本日ご紹介する場面はこちら、

ランベールさんが街の脱出にどうしてもうまく行かなくて落ち込んでしまうシーンより。

(ランベール)「どうでしょう、あなたは恋愛のために死ぬことができますか?」
(タル―)「さあ、どうだか。しかし、どうも死ねないような気がするな、今は」
(ランベール)「そうでしょう。そのくせ、あなたがたは一つの観念のためには死ねるんです。それはありありと目に見えてますよ。ところがです、僕はもう観念のために死ぬ連中にはうんざりしているんです。僕はヒロイズムというものを信用しません。僕はそれが容易であることを知っていますし、それが人殺しを行うものであったことを知ったのです。僕が心をひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです」
リウーは新聞記者(ランベール)の言葉を熱心に傾聴していた。そしてじっと相手の見つめていた目を放さず、彼はやさしくこういった―――
(リウー)「人間は観念じゃないですよ、ランベール君」

 人間は観念じゃないって、そんなの当たり前です。
でもね・・・

 

ランベール君はそう言われてどうするかというと、激昂します。
「観念ですよ、それもちっぽけな!」と切れはじめてしまうんですね。
リウーさんはキレたことに対して何も言いません。淡々と「あなたは間違ってません」と言う。

(リウー)「君のいうとおりですよ、ランベール君、まったくそのとおりです。
ですから、僕は、たとい何もののためにでも、君が今やろうとしていることから君を引きもどそうとは思いません。それは僕にも正しいこと、いいことだと思えるんです。しかし、それにしてもこれだけはぜひいっておきたいんですがね――今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」

誠実さ=職務を果たすこと と考えるというリウーさんに、ランベール君は迷いを吐露する。

(ランベール)「僕には何が自分の職務だかわからない。実際、あるいは愛を選んだのが間違いだったのかもしれない」
リウーは彼のほうに向き直った―――
「そんなことはない」と、力をこめて彼はいった。「君は間違ってはいませんよ」

実はリウーさんの奥さんはペストではない病気になって遠くの療養所にいるのだ。
そのことを知らないで「いいほうに立つのは簡単だもんね」とこれまたひどいセリフを吐き捨ててしまうランベール君は、タル―さんからそのことを聞いて驚き、翌日、思い直して保健隊の仕事を手伝わせてくださいとリウーさんに電話をかける。

    ■

迷いなく職務に専念する医師、それと対象的に、街のひとびとの生き死になんて関係なく自分の恋人への想いで突き進む一見無謀で勝手な青年を向い合せで描いた印象的なシーンです。
ここ非常に感動したシーンのひとつなんですがー、実際のところこの小説はこういう目立つシーン でない部分 にもっと大きなキモを置く憎い構成で、そっちについてはまた別の機会に語ることにしたいと思います。


リウーさんが、恋人のもとに駆け付けたい気持ちでいっぱいのランベール君のことを応援する気持ちはおそらく本物だ。だから、力をこめて、彼はランベール君の言葉を即座に否定する。

小説のかなり冒頭にリウーさんが療養所に発つ妻を送るシーンがある。彼は妻が病気になったことについて「自分がほったらかしにしたせいで」と謝る。
だから、彼からしたら、ヒロイズムとして「いいほう」に立っている訳では全然なく、むしろ愛するひとを病気にした立ち位置にいるのが自分なのだ。
今まで妻が半分手遅れになる位までほったらかしにしておいて、
そうまでして自分の職務とやらに専念しておいて、
いざ手遅れになったからといって慌てて手の平返しをして職務をなげうつのでは、今まで妻をほったらかしにしておいたこと自体を愚弄することになってしまう。

自分のやったことについて責任をとるというのは、
(何があろうとも)これが私の意図した成果なのだと、
そういうことで・・・
それが誠実さという単語で表されているのだと思う。

往診やら病院の運営やらに粛々と迷いなく取り組むように見えるリウーさんは、時折届く療養所からの電報を大事に何度も読み返している。
医者として誠実にペスト禍という事態に向き合っているという誇り、そして、妻もそんな自分を信じてくれているという信頼感を、一時の感情のままに台無しにしてしまわないように、彼は誠実に職務に専念し続けなければならない。
そういう彼の業としての「枷」、そういう縛りのないランベール君はせめて彼の愛を自由に貫いてほしいと心底リウーさんは願っているようにも見えるといったら言い過ぎだろうか。

自分が信じた道を信じて進むべきだと若者に説くリウーさんの言葉はおそらく若き日のリウーさん自身に向けたものでもあるのだろう。
描かれないので推測だけれど、リウーさんが若いランベール君の言葉を熱心に聞くのは、彼自身の悩んだ時代に似ているからではないかと、
だから、ランベール君のめちゃくちゃなやつあたり(引用では略したけれど、結構ランベール君はやけっぱち状態でリウーさんとタルーさん両名をヒーロー気取り呼ばわりする)に対して、彼は一切の言い訳というか誤解を解こうということはしない。
そういう発言を受けて、「疲れた様子」で黙っているだけだ。

ちなみに、さすがに見かねたタル―さんが、「リウーさんだって奥さんと離ればなれなんですよ」とランベール君にこっそり教えてあげることでランベール君は自分の発言の軽率さを自覚するのだけれど、このタル―さんも興味深い。
タル―さんもランベール君の言った「ヒーロー気取りメンバー」に括られているのに、タル―さんが誤解を解くため言及したのはリウーさんについてのみで、自分はどうでもいいというスタンス。
それだけ言った瞬間に飄々と部屋を出ていく。
タル―さんは言うべきと思ったことを言ったまでで、それを受けてランベール君がどう思おうが彼はあんまり気にしないのだ。やさしいリウーさんに対してタル―さんはつよい。



自分の周りに起きていることに対して、どう動くのかはそれぞれの個人にゆだねられた自由で、好きなように選択すべきものなのだ。
ランベール君同様、
文中で「職務」と表現されたそれは私の中でもまだよくわからない。
(会社から怒られてしまいそうで恥ずかしいけれども)

ランベール君は、このシーンで、自分の言っていた愛こそけがらわしい“観念”そのものにすぎないと、しかも、自分の愛するものを愛することは愛と言う言葉で美化せずとも独立して現実化できることだと考え直したのではないだろうか。
それで、保健隊への協力も出来る範囲でしていこうと考えを改めた。
自分が大事にしたいのは「観念(=誰かのために)」ではなく「現実(=自分のために)」なのだと、より確からしい道を行くことに決めたのではないかと、思った。

人間は、観念なんかではなくて、現実に生きているんですよ、と
だからこそ、
ヒロイズムが欺瞞だと見抜いた自分をきちんと信じてください、と
あくまでもやさしくリウーさんは若者に語りかけた。
「人間は観念じゃないですよ」

 


人間は観念じゃ ない、
そうだよ、ねー・・・


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ドッグイヤーのひとつです。
ドッグイヤーはペンで線を引くよりは見られても恥ずかしくないのでおすすめ!)

自分でもびっくりするのだけれど、実はというかぁやはりというかぁ、まだ半分しか読んでいないんですよー。
半分の感想ですが、「人間は観念じゃないですよ」といわれた(いわずもがなで私はランベール君にそっくり感情移入してしまってますから、半分、私がそう言われた位の気分での思考回路になってます)私的クライマックス、これがどういう意味なのか一週間くらいは余裕で考えるおかずになっていました。いや、色々忙しかったのもあるんだけど・・・

私は燃費よすぎだと思う(号泣)本が読み終わんないw
こんなんじゃ読書会に参加できないw
が、がんばれww



それはそうと、感情移入というものは自分にインストールされている色々の中でもなかなかよいシステムだとしみじみ思う、
これ共感というものとも違うんではないかと、
その誰かに「なりきる」ことは、「なる」ことではなくて・・・その分、立ち位置が客観的でいられる分、冷静な判断に基づいた方針を打ち出せる。且つ前提としてその人物に対して寄り添う立場でもある。(=弁護士)
感情移入は、単純にその人に「なる(=共感する)」に留まらず、「自分がその人になって、どう動くか」まで含んだ能動的な言葉ではないかな(共感=感情移入としている辞書もあるけれど、違うくないか)

私は一般的に自分自身というものを完全に許すことはやっぱり難しいことだと考えている。まー私だけなのかもしれないけれども、普通、お釈迦様でも超人でもいいけどそこまで悟れる人なんていないでしょ。
完全に自分の味方(弁護士)になれない分は、裁判官だの検察官だの自分(ないし、自分を投影した誰かまたは社会、世界)を責める構造になってしまう。責めているだけでは「~~が悪い」で思考停止するので不毛だ。
「~~すればいいじゃん!」とか「~~しないのが悪い」でも論調が責める系ならみんな同じね。そう「してみよう」と思えないこと自体が問題なんだから。
何らかの解決を本気で望むのであればまず、責められた場合の弁護士的な理論武装が自分の中で出来てないと話が次の段階に進めない。

で、難しい、その直接自分に対するアプローチという奴ができない場合の有効策が、純文学でも映画でもブログ読むでも人の相談に乗るでもなんでもいいんだけど、感情移入システムだと思う。
一旦自分の全部ないし一部を誰かに仮託した上で冷静に解決策を模索して、それをあとから自分にも適用するというか。
自分だったらこうするのにな、を
そうか自分もこうしよう、まで、直接の自分裁判をすっ飛ばして持って行けるんだから、活用しない手はないでしょう、と。
そんな風に思います。

本読むの楽しいよー。(疲れるけど・・・)

今日はここまでです。

おやすみなさいー