ドキドキしちゃう

ダメな人の自己愛ドライブレコーダー

世界のネカフェから  ブログのメイン。管理人の見た世界の不条理。
ツイッター   ゆるふわ日記。思考回路オープンソース企画。

1年前の日記と10年前せんせーが言ったこと

中学生の頃からノートに日記を書く時期と書かない時期がいつもぐるぐると回っている。案外それは自分の精神状態とは独立した周期を持っている気がする。落ち込みすぎても日記は書かないし書けないし、頭がぐちゃぐちゃしているときだけ書くという時期もあったり、単純に惰性で毎日かいてみたり、何年もぱたっとやめてみたり、でも常にノートはすぐに出せる位置にあって30冊とかそれくらいの歴史がたまっている。
そしてそれっぽいものをネットに公開するようになってからもうずっと半年以上は過ぎた。
もちろんネットに公開することとマジで自分限定に向けて書くことは全然自分にとっての意味も事実関係としての内容も全然違うものだ。
ブログもそうかもしれないけれど、特にノートに書かれた日記を読み返す自分は確実にそれを書いた自分とは別の人格になっている。なっていないとおかしいのに、それを書いた瞬間に「帰れる」ときもある、それはだいたいその出来事が過去になっていないという意味だ。みんな覚えていないことは全部忘れちゃうから。忘れることの是非は自分次第で各論にすぎないけれど、結構このリトマス試験紙的な働きを私は重要視している。

 

キャッチよくいえば、一年前の明日は今日のアナロジーだったかもしれない。
送別会という名の飲み会があった。
基本的に私はイマドキの若者というかもっとズバッとシンガタウツでもなんでもいいけれども会社のオツキアイとしての飲み会全般が本当に苦手で、、
前回は、ちょうど記録がノートに残っていて、意味不明の悔恨がつらつら書かれていてこいつ頭おかしいんじゃないかと思った。だって何があってそう思ったのか何も書かれていなくてぜんぜん気持ちが伝わってこないんだもん。ど、どーしたのよ自分何があった言ってごらんみたいなw
自分だけしか読まない場所では、誰にも通じなくても一向に構わないで勝手に書くので、「ちゃんと書く」レベルはブログとは比べモノにならない。ブログでも結構テキトーな日多いけどさwww
で、多分自分だけにわかる言葉だけでなくてちゃんと日本語にねw 整理して書かないと、気持ちってーのも整理されないんだよねふんふんと思った。ただし、覚えている限り、という注釈が大きな意味をもっている。気合いをいれて整理して消すこと以上に、いつのまにか消えちゃうことだってたくさんある。
これは覚えておくべき、と印が残っていれば、そしてその印が内省や反省ではなく、被害妄想的な不快感として残っちゃっていたとしたら、きっと今日の出来事は過去の不快事例の再現となったのだろう、だからアナロジーは実際問題ほとんど失敗したといってもいいと思う。危なかった、と思った。

 

(これ逆にも結構怖いことだと思うんだけどさ、みんな、臥薪したり嘗胆したりそこまでしないと覚えてられない、、どんなことも、)

 

それはそれとして
「行間が読める」という現象、前回の詩の話でも書いたのだけれども、「何かありそう」ってわかる感覚 = 共感、これを欲することがフロイドのいう性欲ってやつなのかなと考える。
詩でなくても絵に感動でも音楽にココロが揺さぶられるでもブログに星をつけるでもなんでもいいの、
過去の日記を読んで「思い出す」でもいいよ、
そこにあるのは共感だと思うんだよね、たとえ正確なあれが通じてなくても、「あーーーわかる」っていう話者と受け手の触れあいが

 

何かね、人のグチとか聞いていて、
「わかる、わかるぅ〜、うんうん」って聞いているとき、それは認めてあげているっていうよりも、同じ時間を生きているということだよね。
同じ気持ちになっている。だから話し手としては嬉しいし、うまくすればそれで気持ちを片付けることも出来る。

 

反対に、全く同じ話を聞いていても、
「わかった、わかったから」と反応が過去形になった瞬間つきはなした感じになる。
話している方は過去になってないのに、聞いているほうは一緒の時間をいられなくって、もういいよ、進もうよ、と。

 

この話も実はせんせーの受け売りだけど、
私はもう昔の日記を書いた自分と同じ時間を生きることは当然、再現することもできなくなっていて、
ちゃんと過去になってるんだなと、
「あーーー」って思ったんだよねw

 

それだけなのでオワリますw
お疲れさまでした。