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ジョージ・オーウェル『1984年』を読みました(読書感想文)

ジョージ・オーウェルの「1984年」というSF小説を読んだ。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 (以下ネタバレありありなので隠します)

 

この本を語る場合に必ずといっていいほど出てくる単語は、ディストピアだ。
ディストピアとは、ユートピアの反対概念であり、日本語で言うと地獄絵図が妥当な翻訳だと思う。
天国と地獄。
どちらに行きたいかは普通聞くまでもないだろう、また逆にどちらを人間がより恐れているかも。
西洋東洋問わず、天国の絵画と地獄の絵画は、その生き生き具合が全く違う。地獄やら悪魔やらを人間が考える場合の想像力の羽ばたき方といったら、
どうしてSFは悪夢のような社会を描くのか、それは夢のような世界の話ではお話にならないからではないか。地獄絵図には動きがあるのだ。動いているように、見える。

SFに限らず読書は必ず、主人公たちが「そんな世界」でじたばたする様を、読者は本の向こうから覗き込む構成になっている。

さて、1984年における「そんな世界」とはどんな世界か。
例によってWiki先生を召喚して舞台背景を見てみよう。

1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョンによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

1984年 (小説) - Wikipedia (あらすじ)より

そんな社会。監視社会。

政府である党の権力は絶対で、過去すら党自らによって常に書き換えられていく。
主人公であるウィンストンさんは、その社会の異常性に気づいてしまった異端者だ。彼は過去を捏造する自分の仕事への違和感を解消できない。それはできないというだけでその世界では「思考犯罪」を犯したものとみなされる。
彼は作中遂に収監され、異端を「矯正」するためという名目で拷問にかけられ洗脳される。ついには党の象徴である「ビッグ・ブラザー」を愛するという彼自身の破滅の姿がラストシーンとなる。
心の底からげんなりしてしまう、爽快感も一切ない、本当に嫌ーな終わり方だ。

1984年は社会システムのアイディアから拷問方法から全てが私の知っている色々な作品のモチーフになって今の時代も世界中の人々を魅了しているように見える。20世紀少年のネタバレが、正義も何もないただの・・・といった構成も、権力のための権力を求めるのだと語る党幹部のトンデモ発言にそっくりだ。

地獄絵図が人を惹きつけてやまないのはそこに動きがあるからだ。正しくは、動いているように、見えるからだ。
でもそれは、結局絵にすぎない。そこにあるのは、動いているようで実は同じ動きを繰り返しているにすぎないもの、とまったもの、即ち絶望だ。

(そういう意味で、ユートピアもその実ディストピアと等価である = そこにあるものは現実からの乖離の幅だけ)

しかし、ウィンストンさんは言う。
プロールたちの中に、希望はある、そうウィンストンさんは作中で何度もそう語る。
「僕たちは死んでいる、しかし、彼ら(プロール)は生きている」と。
プロールとは、奴隷階級だ。
虐げられ、職業は肉体労働に制限され、娯楽も党が自動的に組み替えてつぎつぎと作成する低級な音楽や映画で満足を感じるようにされている。

プロールってのは・・・(なんてWiki先生は素晴らしいの。)

党に関わりを持たない人々はプロレ(2009年新訳ではプロール、the proles、プロレタリアの略)と呼ばれ、人口の大半を占める被支配階級(下層階級)の労働者たちであるが、娯楽(酒、ギャンブル、スポーツ、セックス、またその他「プロレフィード(Prolefeed、直訳すると「プロレの餌」)」と呼ばれる、党の制作した人畜無害な小説や映画、音楽、ポルノなど)が提供されている。彼らに対する政治教育は行われておらず、識字率も半分以下である。多くはテレスクリーンさえ持っておらずそれゆえ監視もされていないが、党はプロレ階層を社会を転覆させる能力のある脅威であるとは全く見ておらず、動物を放し飼いにするように接している。彼らは10代から働き、早くに子供を作って60歳までには死んでしまう。重労働が彼らを蝕み、彼らの住む貧民地区にはおびただしい犯罪が横行している。

1984年 (小説) - Wikipedia

 
ウィンストンさんが見るのは、彼ら奴隷階級がふとした瞬間にデモを起こしそうなほどに一体感をもって興奮を起こすその瞬間だ。それは、その世界においてほぼ近い将来に革命を起こすのではないかと言う気さえそのシーンを読む限りにおいて読者に持たせる。当然だ、主人公のウィンストンさんがそう思っているのだから。彼によりそっている読者は自然に、彼らが本当に意味で「生きている」と実感する。
ただし作中そのような希望が続くとは一切描かれない。その小さな希望すら、絶対に無理だという印象すら読者に与える。ウィンストンさんが望みを失うと同時に、読者も一緒に絶望を感じる。

しかし、筆者であるオーウェルは粋な計らいを仕掛けている。
ラストシーンに付録としてついている「ニュースピークの諸原理」だ。(ニュースピークの性質やそれを用いた社会抑圧手法についてはそれだけで面白すぎるので書かないことにするが、)一見何の面白味もない論文の体裁を持っているであるが、更にこの作中より未来、党の支配が崩壊したのではないかという内容が匂わされているというのだ。これは、文庫本の解説*1にあるトマス・ピンチョンというアメリカ作家の指摘であるが、まさに慧眼だと思う。


それはそう思う、あんな無理のある政府ってない。

作中に出てくる世界の現状を説いた発禁本のいうとおり、世界の安全保障上均衡が取れ、党は国内問題に注力できる環境に確かにあるのかもしれない、しかし、それにしても、一人の囚人に対して党がかけるコストが異常すぎるのだ。(時間軸が全くかかれないためおおざっぱに見積もることすら出来ないが)単に人間をいたぶり、残酷に処罰し、見世物にして民衆のストレスの捌け口にする、それならまだ目的がはっきりしている、しかしそうではないのだ。
一個の「思想犯罪者」に対して、完全に肉体も精神も全て破壊し、党への忠誠心を植え付けて社会復帰させるプログラムが恐ろしいほど綿密に組まれている。しかも、社会復帰させたそのあとで射殺するという意味不明っぷりだ。そのための人材投入も半端ない。中枢も中枢の有力者らしき人物がマンツーマンで囚人の拷問にかかりきりになっている。しかも重要だと思うのだが彼が「うっとり」とした態度でその仕事に臨んでいるのだ。
囚人の個性により洗脳にかかる時間に差が大きくあることは言及されるが、どの囚人に対してもそれは徹底的なものとして描かれる。

更に言えば、どうやら不満分子の摘発自体、党による自作自演の可能性すら作中否定されることはない。ウィンストンさんという獲物にロックオンし、罠であるアングラ骨とう品店まで舞台設定として用意して、7年を費やして立派な「思想犯罪者」にしたてあげ、

・・・確かにヒロインを代表するように党の思惑以外の行動をする人間の存在はあるがそれは党の書くシナリオに微々たる変化しかもたらさなかっただろう。思想犯罪者自体の育成と破壊、洗脳、射殺、そのシナリオを、党は延々と繰り返しているのではないか。

そうだとしたら正直、、、そんなことしている場合なのか、と思ってしまった。
プロールの人口のほうがよほど多いのだ。
実際に間抜けなウィンストンさんですらデモクラシーの不吉な兆候を見ている。

(間抜けといったのは、彼は作中形容されるとおりで、「形而上学的に考える能力に乏しい」からだ。彼は過去の事実を知りたいという熱意はあった、力がないながらも工夫して勇気も出して頑張ってせっかくプロールの老人をつかまえて貴重な各種の証言をつかむことに成功する、しかーし彼の感想は「つまらない断片ばかりで何もわからなかった」で終わってしまうのだ、断片は自分で繋いで考えなきゃだめだよう!内容がない話なんてありえないよう!と自分でもろくすっぽできないことを小説の主人公に求めるむちゃくちゃ)

思想犯罪者は、党の構成員に限られる。
プロールには監視の目も、教育(ここでは前述のニュースピークという意味)も届かない。その必要がないというのは党の考えなのだろう。少数でしっかり抑えて、バカな“民衆”の欲望をコントロールしておけば、謀反も起こらない、と。きっと、理論上はそうなのだろう。党は党員への徹底的抑圧とは対照的に、プロールの行動を把握することははなから諦めているし、実際にしようとしてもそこまで出来ないのだろう。
プロールには、党が党員のそれを破壊した、“普通”の人間の感情やいとなみというものがしっかりと残っていて、ウィンストンさんはそれを見て「美しい」と憧れさえ抱く。
“普通”の人間の感情やいとなみがあるということは怒りや批判精神もあるということだ。党が自分の権益を守りたいのであれば、その捌け口を常に用意し、暴走を起こさないよう繊細な調整が必要となる。
しかし、劣悪な環境に抑えこんだまま、不満をいかにも適当なやり方(愛国心をあおったり、当たりの絶対にないギャンブルで騙したり)でごまかそうとする、そこにはウィンストンさんが受けた拷問のような徹底的な態度による、そういう意味での誠意というものが全く感じられない。

安穏と身内の洗脳ごっこで溜飲を下げている暇はあるのだろうか。
わざわざウィンストンさんという無害で貴重な人材を矯正させて事実上の死体化をした目的は何か。党は永遠であると党自身が信じられていないのに、それを「自らが」信じこむためだけが目的であったのではないか。党の継続の実現を本気で目指すのではなく、党の永遠という幻想をどうにかこうにか実感として繋ぎとめるため、全能感を感じるためだけ、そのマスターベーションが止められなくなっちゃったみたいな妄想の妄想による自作自演の姿ではないか。


こうしてモチベーションが完全に内向化した種類のナルシズム的な政府の終焉をオーウェルは皮肉っぽく描いたのかもしれない。

そして、民衆への希望を(薄く、非常に薄くだがしっかりと)描くことで、1984年は、地獄絵としてだけではなく、現実に近い(=リアリティーのある)写し絵としてより人を惹きつける作品となっているのかもしれない。

 

 

と、思った。

あー げんなりした。

*1:解説が面白いっていうのは私にとってほとんど初めての経験でした