ドキドキしちゃう

ダメな人の自己愛ドライブレコーダー

世界のネカフェから  ブログのメイン。管理人の見た世界の不条理。
ツイッター   ゆるふわ日記。思考回路オープンソース企画。

こどもが生まれた。

縁があって、自分の中に、中の人という概念のほかに物理的に知らない人がひとり増えていたのだが、それから長いことがたって、遂にそれがずるりと外に出てきた。出てきた瞬間、その人は真っ赤な顔で予想よりずっと大きい声で自分の存在を外界に主張していた。放心していた自分は思っていたよりもその人の姿が人間らしいものだとぼんやりと思ったような気がする、実際にそう思ったのはもっと後だったかもしれないけれど。
カンガルーケアという知らない言葉を誰かの受け売りでよくわからないまま希望欄に書いたからだろうか、助産師さんは血を拭われてきれいになったその人を私の胸に(白いシート越しだった)そっと載せた。誰からも教わっていないのにその人は一生懸命口を開いて乳首を探した。吸われる度に走る鋭い痛みにびっくりしたけれども、頑張れ頑張れのほうが強かった。こんなに小さい頭の中に立派な野生があるものだと私はしきりに感心した。

 

人間を新しく産み落とすというのはいろんな人がいろんなところで言っているとおり、たいへんなことだった。ただ、いろいろな話を調べたり聞きまわってはいたけれども、それは自分の想像を超えるというよりかは、もっと全く違うベクトルに大変なことだった。誰でもやっていることなのだからと高をくくっていたと言われればそうなのかもしれない。
ただ、どうやらその苦しみは人によって違いすぎるらしい、そして、陣痛の痛みをひとは忘れてしまうらしい。大問題だ。人によって違うことをしかも忘れてしまったら他人に引継ぎなんてできるわけがない。
あの地獄のような終わりの見えない痛みを忘れてしまう、しかしこれは本当にそうだった。
翌日くらいまでは、分娩室から聞こえてくる断末魔がフラッシュバックのトリガーとなって毎回布団をかぶって震えていたけれども、何晩かたってからは入院中に一緒だったひとと、もう忘れてしまいそうですね、なんてのんきな話をしたくらいだった。
実際には記憶喪失じゃないんだから痛かったのもツラかったのも言われた言葉も覚えているにはいる、けれども情緒的なあれこれはほぼ欠落してしまって、何年前に付き合っていた誰と行ったどこそこの思い出と同レベルのデータに数日で成り下がってしまったかのようだった。

 

そういったあれこれがだいたい二週間前のことで、いまは自分の体はもとに戻った。
正確には、腹の皮は余っているし絶賛やつれているしと鏡をみると悲しい気持ちにもなる。けれども、とにかく私はひとりに戻って、自分の中にいた人物はたいてい私の隣の専用の布団の中で眠っているようになった。その人が生まれたばかりのころは空になった場所がなんとも不思議で無意識に何度もさすっていたりしていた。家に帰ったいまはまだ新しくて意味もないのにうつぶせになってみたり、シャワーを使わないでシャンプーができることが嬉しかったり(洗い桶に頭をつっこむほうがすっきりする)、仰向けはやっぱり寝やすいんだと思ってみたりしている。そういう当たり前は近いうちに消えていくんだろう。

 

新しい人との付き合いはまだまだ成り立っていなくて、忙しいし幸せを感じる余裕はない。
ひとと比べても意味がないけれども、ほかの親子の様子よりも私が彼女をかわいいと思っていないようにさえ感じる。産後鬱のマニュアルに載っていたとおりの気持ちだ。オキシトシンというホルモンが働いて、母親は子供をかわいいと思うようにできているらしいのだけれども。妊娠してかなり初期のころは、自分の意志とはまるで無関係にスイッチする自分の体に辟易としながら、いいや自分はまるで全くの野生動物そのものなのだと自覚したときの興奮を伴ったよろこびもあったのに。
とはいえ、彼女が泣けば自分の気持ちなんかとはやっぱりなんの関係もなしに母乳は勝手にだらだらと出てくる。正直怖い。オートマタかはたまた奴隷かとうんざりしながらガーゼでふき取っては少し安心している自分がいる。
自分からストックホルム症候群にダイブできないと子育てなんてものはできないんだろう。
これでいいのだと思える時間が早く来ればいい。