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ドキドキしちゃう

ダメな人の自己愛ドライブレコーダー

世界のネカフェから  ブログのメイン。管理人の見た世界の不条理。
ツイッター   ゆるふわ日記。思考回路オープンソース企画。

猫 5

旅先で、特に海外でおいしいものを求めるのは旅行の醍醐味、しかしガイドブックの星を集めてるだけだとなんだかむなしくなっちゃうときもありますね。そう、そんなときには、地元のひとのおすすめのお店を聞いてみてはどうでしょうか。かわいいこを見つけてそのままワンチャン狙いもいいですね。

 

管理人はこのときもそんな感じで、逆ナンに勤しんでいました。

狙うは断然ストリート系・・・

 

いました

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   あのー 

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   すみません、このへんにカフェかなにか

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    「・・・なに」

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   「んー、あぁ、ねえ、、」

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「・・・1名様」

どうやらスタッフの方だったようです

 

 

 (ギリシャ、ミコノス島)

こじらせ女子でもナンパは不快だったりする話

はてなブックマーク - 暮らし - ナンパの是非 - Togetterまとめ

ってのを読んでみた。全然話が通じない絶望感w

 

「ナンパされて不快になる心理がわからない」「ナンパくらいで」「コミュニケーションガー」 とつっこみどころ満載の声が並んで、容赦なくつっこまれてたけど。 

「だって怖いじゃない」という意見に「善のナンパ、悪気がないナンパについてだから」とかなんとかお気楽な話をし たいとかで平行線のままだった。

 

 

しかし、思うに、気軽なこみゅーにけーしょーんの場合ですら女は基本的にナンパに不快を感じてもおかしくないのよね、と思ってしまったので書いてみる。特にこじらせてる女は。

 

「ナンパくらいで人格否定に走るなんて行き過ぎだ」、という意見、これが一番正論である。 ナンパされたって殺される5秒前でもあるまいし、拉致されると決まったわけでもない、世知辛い社会じゃなければ ちゃんと叫べば誰かがかけつけて助けてくれるーーこれをお花畑の発想だと思うひともいるかもしれないが、ここで話 したいのはそんなお花畑の世界を前提に考えてみても、それでもやっぱりある種の女にとってナンパは不快になりうるとい う話だ。

 

なお、ここでいうナンパは「声をかける」行為だけだ。それだけで不快になるだろうか?

なるのだ。すごいだろうw

なぜか。

 

男性側の本音「本当はうれしいくせに」は今だってどうしてなかなか有力なセリフだ。この煽りで似非フェミだったら 炎上しちゃったりもしかねない(図星で。似非でないフェミなら歯牙にもかけない) 私が論じたいのは、「本当は嬉しいから」という可能性であり、嬉しいからこそ、ますます不快になる構造について だ。

ナンパされてふつうに嬉しい場合のセリフは 「ナンパされちゃったぁ☆」 というモテ自慢である。 

とおりすがりの男に外見を評価されたことに喜んでいる場面。 

(ヤレそうだったから声をかけられたなんて難しいことは考えてない)

 

親しい友人よりも家族よりもバーのマスターにしかはなせない悩みがあるように、 偶然出会った通りすがり男性の意見は、偏見がないぶん知己の男性のそれよりも客観的第三者的評価に近いのではない か、そんな期待を引き起こす。錯覚だけどね。

「ナンパされちゃった☆まわりは気づいてないあたしの魅力ってやつがとおりすがりのあのひとにはちゃんと見えたの ね!」 

本音はこんな感じだろう。 

冷たい目で見られるのは当然だ、しかし、これはまだお姫様願望が春らんまんなんだね、とか、ナルシストの痛い子な んだね、で済むセリフだろう。

その錯覚により「正しい」社会的評価を受けたという事実は自分の外見へのの自信をつけることになる=嬉しく思うっ てのはそういうことだ。

 

もう一歩進んでみる

「ナンパされた」ということを 、「女である自分が見られる側の性として、見る側の性である男性からよい評価を受けた」 と理解するとどうなるか。

ナンパされた喜びは、支配層(社会的強者である男性)から認められるという男尊女卑的な世界観への追従に等しい、と理解した女性の世界では、いつの間にか、無邪気な☆つきのセリフはこんな意味にまで翻訳可能なものになる。

「この度、私という存在はこの世の特権階級であらせられます男性に仕える女性として、しかも魅力的な女性として、認めていただけたのであります!慶賀!」

自分の尊厳を地になげうったようなあっちの世界にまで状況が変わってしまうのだ。

どうみてもやばいひとだ。自意識ではもちろんこんなの本音として採用される訳がない。

 


付け加えておきたいのは上記の心理の展開スピードは瞬間ということだ。

ナンパを否定しながら「本当は嬉しいと思っている」なんて自覚している女性はツンデレもののラブコメでもない限り まずいない。

 

「本当は嬉しいくせに」という揶揄に対して(冷たく否定、のほうがもちろん通常の反応ですが)女が顔を真っ赤にしてつっかかってきたとしたなら、彼女は「本当は嬉しいと思ってしまった」自分こそを否定するために必死になってナンパしてきた者に攻撃をしている可能性が高い。 

その攻撃は、その男性に向けたものではなく、性差別構造にはからずも組みしていた自分を許せないという気持ちの投 影(対象が実は実在しない)なので、容易に仮想敵認定された相手の人格攻撃までエスカレートする。 

また、「ナンパされるとなぜか落ち込む」女たち(自分がそう、個人的にはかなり多数いると思っている)は、おそらく無意識にこれをトレースして自己嫌悪しているのだと思う。

 

大事なことだけど、「ナンパされて(本当は、ではなく)ふつうに 嬉しい」女はいる。いっぱいいる(といいな)。

 彼女たちは(まだ知らないのか、ふりきって自由な世界に生きているからかはわからないが)性差別のない世界に生き ているのだ。正直うらやましい。知らない人間から笑顔で話しかけられても、ナンパも道を聞かれるのも同じと思って いるのだろう。

 

現実に、硬派でナンパなんて考えもしない男もいる、ナンパを気軽にする男も、こみゅにけーしょんの練習台としてナンパのまねごとをする男もいる(らしい)。

それを笑って許してくれる女はいる、そして、許せない女も多い、許せないけど笑って許してあげるふりをする女は今 回のまとめで可視化された。現実の率がどのタイプが多いかは知らない。誰のコンプレックスも顔にだだもれなんてあ りえないからだ。


さて、冒頭のまとめの炎上発起人の盛大な甘え 「ナンパくらい許してくれたっていいのに」

 そういうことで、やっぱりちょっといただけないですね。

【映画】「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を見てきたメモ

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を見てきた。すごくあっさり覚書を残しておく。

公開すぐだというのに相変わらずうちの近くのシネコンは閑古鳥。

 

www.cinematoday.jp

ストーリー:かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡(ふうび)した俳優リーガン・トム ソン(マイケル・キートン)は、落ちぶれた今、自分が脚色を手掛けた舞台「愛について語るときに我々の語ること」に再起を懸けていた。しかし、降板した俳 優の代役としてやって来たマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)の才能がリーガンを追い込む。さらに娘サム(エマ・ストーン)との不仲に苦しみ、 リーガンは舞台の役柄に自分自身を投影し始め……。

ネタバレあり。

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「セックスできるお父さん」フィクションの挫折ネタ

どうにもこうにもかみあわないぞとひとしきり悩んで、
そうかわかった私のことを「セックスできるお母さん」だと思っているのだこのひとわ!それならすべてのイミフ発言やすげえなとしかコメントできない行動に説明がつく!そんな衝撃を受けて、よっしゃあわかったそれならいっちょがんばるぞ女は度胸だとよくわからない決意でもっていっそう黙って尽くしては――尽くすったってそのへんのバカ女の思考停止と一緒にしちゃいかんけんね、というイミフな過信込みで――みたものの、どうにもこうにもうまくいかない。意に反した結果のカウント数がふえていくばかり。こんなはずでわないのにないのに!とどんどんどつぼにはまっていたあのころ、挫折をどうしても認められなかったあのころ、どんな誤解があったのか、はじめの動機はなんだったのか。なにせほとんどその最初から、そのひとがアレなことを示す兆候はいたるところに転がっていたのだ。にも関わらず一体全体どうしてわたしはくだらないマザコンにむちゅうになって尽くしていたのか。恋愛は投影にすぎない、自分の目に映った恋愛相手は自分の鏡である。なんのことはない、そのひとがわたしを「セックスできるお母さん」と思っていたということは、わたしがそのひとを「セックスできるお父さん」なのかと思っちゃっていた裏返しなのだ。認めてもらえたあかつきの世界にはなにかステキな(言語化できない)見返りがあるのでわないかという超独自の謎仮説をたて、それに基づいて奔走してきただけなのであった。
セックスできるお父さんとセックスできるお母さんが付き合ってるんだからちゃんとしたカップルではないか、ちゃんとうまくいくはずだ、これが私の無意識にうちたてたご立派な仮説であった。バカか。
ちがった、ぜんぜんちがったのだ、セックスできるお父さんもセックスできるお母さんもそんな存在はこの世にあり得ない、なぜなら話の発端が幼児の妄想だからだ。当たり前だ。
結婚した人間がセックスしていい相手はその配偶者だけであって、子供とやったらどっちからの面だって犯罪だ。幼児にとってはお父さんもお母さんも自分のセックスの相手ではない。むろん現実を見ても親世代のみなさまはあまりにもおっさんとおばさんで、自分の世代との間にセックスを持ってくるには別途想像力をオプションで持ってこなければならない。例えばパパって呼んだりお金を介在させたり変態になってみたり。
ライオンの父親はこどものライオンが大人らしくなってくると敵認定して即追い出しにかかるというが、人間のこどもは自分でバイクを盗んだり汚い言葉や嘘の支配からじゆうになりたいと家を飛び出す、せっかく飛び出したのにまだお母さんやお父さんの幻影を見ていてはぜんぜんじゆうじゃないじゃないか。しっかりしてよ。


しかし当時の自分はまた別の世界を生きていた。彼女はそのひとに父親の幻影を重ねてはいないかという私の忠告を、それがどんなに事実であっても無視したに違いない。バカではあってもどうやらそのバカ女はそのひとに惚れていたらしいこともとんでもない事実だからだ。バカ野郎は、アレなアレを全部差っ引いてもとんでもなくいっしょうけんめいでこどくで不安を抱えていた、だからどうか安心してほしかった、喜んだところがもっと見たいと思ってしまった、そんな彼女の負けだった。
にゃあ。

 

【映画の感想文】アメリカン・スナイパーを見てきました。

映画『アメリカン・スナイパー』予告編 - YouTube

アメリカンスナイパーを見てきました。
もうロードショーからだいぶん時間がたっているのにどこの映画館も激混み。イーストウッドはさすがです。

以下、これでもかとネタバレしてます。

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「米軍史上最多、160人を狙撃した、ひとりの優しい父親。」
「彼は帰ってきた。心は戦場においたままで。」
「国を愛し、家族を愛し、戦場を愛した男」
「この男、英雄か―― 悪魔か―― 伝説的スナイパーの半生を描いた、衝撃と感動の実話」
キャッチコピーを並べていたらなんだかおなかいっぱいになってきましたが、そういうお話です。
評 価が分かれているようですが、特に戦争への賛美とは思いませんでした。賛美ととる感覚はちょっとわかりませんが、反戦かどうかは、映画を見る人によって変わってくるかもしれません。私は映画やド キュメンタリーの報道にたまに触れる程度で、実際の戦争体験には非常に乏しいので印象論にはなりますが、なかなか戦場というものの現実を丁寧に描いている 映画に見えました。

アメリカンな主人公
主人公である伝説的スナイパーは、テキサスの田舎町で保守的な父親によって教育されました。
教育の骨子は「人間には3種類いる」というものです。
三種類とは、羊、狼、狼から羊を守る番犬です。
羊 は自分に危険が迫ってものほほんとしている無垢な存在、狼はそのまま敵、番犬は狼から羊を守る存在です。誰がどう考えても番犬が一番カッコイイです。少年の主人公もキラキラした目で「そうか、僕は番犬になる男か」と理解します。では誰がその番犬を飼っているのでしょうか。

主人公は、聖書をいつも胸にしまっています。なのにそれを実際に読んでいる姿を見たことがないと揶揄されます。そこに疑いをはさむ余地がないので、読む必要がないということでしょう。
大事なものを問われて主人公は迷わず答えるシーンがあります。
「神、国家、家族だろ?」これが、番犬が仕えるべき、そして守る対象なのです。


ツインタワーに飛行機が突っ込む映像をみて、羊である家族を守るために、大事な国家を攻撃してきた狼を撃退するため、番犬である主人公は戦場に向かいます。
第三国の観客である私は、ちょっとどういう論理かついていけなくなりました。なぜ攻撃を受けたかとかそういう視点が完全に抜けています(もちろん演出でしょう)

しかし、彼が守ろうとした家族=妻は羊ではありません。人間です。
彼女は妻の自覚は強いですが、自分が羊だとは思ってません。彼女は彼と付き合う前は、傲慢な人間が嫌いだと宣言していました。自分を選ばれた人間だと思い上がって周りをバカ(羊)扱いするような男であれば結婚は考えられなかったのです。特殊部隊に所属する主人公は「そいつらとは別だ」といって彼女と結婚します。彼の番犬だという自覚はきっと無意識に沈んでいたのだと思います。そうでなければ詐称になってしまいます。
彼は自覚的にもよき夫、そしてよき父親でした。周りからしてもそう見えていたでしょう。しかし、狼の襲来をトリガーに、彼は番犬になってしまうのです。

主人公は4度戦場に向かいますが、行くことについては特に個人的な葛藤は持ちません。「行かないで」と妻に泣かれても、特段なぜ行かねばならないのか説明は出来ないのです。番犬であることは彼にとってしみついた無意識だったのです。


田舎の保守思想は現代アメリカではもはや通用しない
彼は日常に還ってくると表面上はよき夫(人間)に戻りますが、妻に言わせると「心が戻ってこない」ということになります。
葛藤は、潜在的なものとして描かれているのです。

沈んだ葛藤が表出するシーンがあります。
主人公が「誰も戦争を知ろうとしない」と愚痴をいうのです。
国が狼に襲われていると言うのに、一般市民はのうのうとアメリカンライフをエンジョイして、ニュースすらイラクの戦場の様子を伝えようとはしない、そういうアメリカ国内の現実に彼は苛立ちを覚えます。
ガチの番犬であれば、羊はそもそも自分の平和や安全の情報にはノータッチで、それをうんぬんできるのは番犬だけなのだから、羊がそれを知ろうとしないのは当然なのに。
それは違うだろう、という彼の疑問が葛藤であり人間の証明だと思います。
しかし、彼が戦場から帰る度、それは色をなくしていきます。おしまいには、精神科医に「神に対しても今までの殺しの正当性を説明できます!」と虚ろな目でよ くわからない主張を始め、「戦場にあるのはただただ、死だけであった」という亡くなった同僚のリアルの声を「ふぬけ」よばわりするようになっていくのです。


妻は当然それを理解できず、「心も戻ってきて」と泣き、「敵から守るためだ」と説明になっていない説明を聞いて「くだらないわ」と否定をつづけます。見捨てることなく。
主人公は家庭に居場所を見つけられず、職場(戦場)に憑かれたようにいってしまう、という夫婦間のミスコミュニケーションと、その問題から逃げることなく夫に向き合った妻の物語とみると、非常に感動的な側面もありました。


イラク戦争を描いたわけではなさそう
しかし、この映画、イラクのひとは「野蛮人」とされるばかりで(アメリカ市民だって知性のない羊呼ばわりだから野蛮でも人間であるだけマシかも、というのは冗談)ちょっとイラクのひとが見たらどう思うのでしょうかという面もあります。アメリカ軍の兵士にとって、イラクの民間人は守るべき存在ではなかった、そういうのもバレバレです。

人間は三種類のうちそれこそイラクの民間人はどれだったんでしょうね。守るべき羊ではない、自分の敵ではなく、撃ってはいけないのはルールだから。狼退治の障害となるゴミみたいなものなんでしょう、ひどいです。

ひどいのだけが妙にリアルです。

例えば、イスラムは絨毯の文化で、日本同様室内での土足は基本禁止です。
日本と同様、玄関には下駄箱があって靴を脱ぎます。踏絵じゃないですが、靴で踏むことはけがらわしいこと=侮辱です。こんなニュースも記憶にありました。

www.afpbb.com

そんなイラクの民家にアメリカ兵がドアを蹴破って御用改めじゃ!とズカズカやるわけです。現地のひとにとってはアメリカ兵は悪魔です。当たり前です。その悪魔が汚い土足のまま高級絨毯を蹂躙するシーン、

そういう悪業を悪業として描いていたので、賛美とはやっぱり取れないです。

(ひょっとしたら土足OK文化圏のひとたちはなんとも思わない行為と映ってしまう可能性がある、のか、、、?)


ちょっと深読みしちゃったシーン

劇中、主人公の天敵でありライバルであるシリア人の凄腕スナイパー(ライバルにふさわしく無駄にカッコイイ)がいるのですが、彼にも彼の妻子があり、過去の栄光があり、人生がある――それはいんですが、イスラムの女性だって室内ではヘジャブ(ベール)被らないからー!あれは夫以外の男性のエロ目線対策なんだってばー!中東美人の普通は見れないオシャレインナー姿が堂々見られるはずのシーンなのになんともったいない

下手したらあのシーンは主人公の妄想を映像化した可能性もあります。だから妙に彼の妻子の存在も現実感のない描き方にしていた、とか。狼は唯一自分とタメはれる人間だから、という意味で。

不意打ちなのに民家に隠れていた女性陣みんながみんなよそ行きのヘジャブ(ベール)被ってたりするのでこれは考えすぎなんですけどね。

まったく余談ですが、冒頭のイスラム女性がチャドルの下に爆弾を隠して寄ってくるシーン、本当にね、マジでチャドルはなんでも隠せて便利なんですよね~ スナイパーとしたらあっちの女性って相当怖かったんじゃないかなと思います。民間人を撃つにはかなり厳しい根拠がないと軍法裁判にかけられる、らしいです。そうしてくれないと民間人としては困りますっ けどっ、、



感想まとめ

だらだら書いてしまいましたが、
物語全体を通して特段イラクのひとを(狼役のテロリスト”虐殺者”は別として)軽んじた印象は受けないまでも、イラクでなにが起こったかは主人公の印象さえ描ければ、という感じでした。

シリアのスナイパーがなぜテロリストに転身したかということも疑問は出るのに!示唆されることはありません。そこを突っ込むとアメリカの戦争開始の正当性が ひっくり返る危険性が濃厚というか、番犬である主人公にはあえて考えさせなかったと捉えました。

つまり、この映画 の主題は、イラク戦争がどういうものだったのかではなく、戦場にいったある兵士の人生であり、のちのちPTSDに苦しむ姿、戦場から日常になかなか還れない苦しみ、それから“人間”に戻るにあたって家族のサポートがいかに重要となるかであって、あくまでもアメリカ国内向けというかアメリカ人のための映画だなと思いました。



イーストウッド監督はイラク戦争には反対していたそうですし、主人公にはもう少し西部劇脳から離れて番犬であることの正当性を疑う可能性というものに辿り着いてほしかったです。最後のネタバレはやめておきますが、ちょっと、救いのないラストでした。

ずっと前、近くに猫の親子が住んでいた。

ずっと前、近くに猫の親子が住んでいた。
真っ黒で、全く誰にも懐かない昔ながらの野良の母親と、その血を色濃く引きついた4匹の兄弟だった。

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猫 4

ぐるなびお題「思い出のレストラン」
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/gnavi201503

 

エジプト、ルクソール西岸をひとり自転車でまわっていたときのことです。のんびり。

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ランチのためにガイドブックからセレクトしたのは煮込み料理のお店でした。

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調子のいい店主との会話、注文と全然違う料理、しかしそのじゃがいもの煮込みもおいしかったこと――

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知らないひとと相席になってしまったこと、
わけてあげたパンを大層よろこんでくれたこと。

いい思い出です。