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カミュ「ペスト」の感想文を書いたらコメントを貰いました(読書感想文外伝)

お前さペストはもーーいーーーから、とお嘆きの諸兄、私もおなかいっぱいいっぱいといいつつもー。またそんな時間が来てしまいました。

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

 

元記事はこちらです。

1(感想文予告編) カミュ「ペスト」を読んだり感情移入してみたり(読書感想文カロリー1/2) - ドキドキしちゃう

2(感想文本編)カミュ「ペスト」を読みました(読書感想文フル) - ドキドキしちゃう

姉妹記事→ カミュ「異邦人」を読みました(粗々読書感想文) - ドキドキしちゃう

 

なんとわたくしコメントいただいちゃいました。(拍手!)
非ー常に嬉しかったです。リアルでカミュについて話せるひとなんてなかなかいないもので、恥ずかしい脳内を晒した甲斐があったというものですw 
長文ですが非常に興味深く読みました。本編にあります、是非見てみてね~
  
それからこんなブックマークコメントもいただきましたので晒しあげ。

Beaufort Beaufort おもしろかったです!/コタールとパヌルーの感想もぜひ。/『最初の人間』もぜひ。

釣られましたねー、ありがたくネタとして頂戴いたしますwwwww
今回の方針といたしましてペストとは何かについて私見を少々の後に、コタールさんとパヌルーさんの感想というリクエストにお応えする形で返信とさせていただきます。hongoさん、id:Beaufortさん、ありがとうございました。

そして大事なことですが
いくらオープンソース命なレモンちゃんといえども、もーね、いい加減ネタバレにしてもやりすぎーなので、
ペストをこれから読む人には以下あんまりオススメしません、まー自分のこれまでの犯歴を考えればこんなコメントも白々しいばかり、今更自重もいたしませんがどうかご寛恕いただければ幸いです。
(寛恕とは マジレスだっせぇーw、と生暖かく苦笑してくださいという意味ですよ)

という訳で未読の人(=読まない予定のひと)にもなるべくわかるようには書くつもりですが、急いで書くのでいつも以上に荒くなる予定です。分かりづらい部分もあるかと、、なんていうか、ごめんね。

※6000字以上あります、奇特な方は是非どうぞ。

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まずはhongoさんよりいただいたコメントについて。
(結構ですね、感想文といっても真面目に書いたものだったので、こういう反応いただけるのは本気で嬉しいですね、、)


>一点、ペストがなんの寓意かという点について考察が抜けているのでは、と思いましたので、
考察が抜けているというかあんまり考察していないのです(爆)
していないなりに、【ペストをなんの寓意と思っているのか】について、私見を語ってみたいと思います。
(これは私の個人的な解釈でかつ解釈しすぎなんだと思いますw 断言しますが、本にはそこまで書いていません)

ペストは、「すべて」の寓意だと思っています。
カミュは「天災」と書き、
そして、筆者にこう言わせています。
「(天災が)頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない」と。

「すべての人間はペスト患者である」というのはタル―さんの言葉です。
天災だけでなく、人災もペストだと、彼はこういう訳です。
タル―さんの言うことはよくわかります、この小説が狭義の天災ではなくナチスを寓意しているといわれる所以でしょう。
カミュがどう考えているかは小説を読んでもわかりませんが・・・)
そして、hongoさんも再生産という言葉で語られています通り、そしてその再生産こそが、ペストのもっとも重要な特徴だと思います。そして、それは我らがランベールくんが気づいたことでもあります。
「ペストの正体は、しょっちゅう繰り返すってことなんです」
繰り返す、ということ。

私が、hongoさんの見解と少しなんですが違うかなと思っているのは、ペストは人間の本質的で抑えがたい心の動きそのものかもしれないと思っているということです。

つまり、私は、不快事例だけではなく・・・
私が今直面している「返事書きたい衝動」やら「恋愛感情」も十分ペスト的だよなーと思っているのですw
それからうっかり系。(←ここは気をゆるめて死んだタル―さんから)
すべて、です。
その衝動がどう転がっていくか誰にもわからないからです。私が本編の感想文でペストを「悪」と書かない旨強調した理由です。

で、その抑えがたい無意識な心の動きを取捨選択して、一旦是非または保留の判断をしてからGOサイン(対応)する(またはしない)というプロセスを含むことが不条理との闘い(=内的な戦い)であると、そう考えているのです。

要は確信犯的な(意図的な)攻撃と無意識からくるこころない攻撃は分けて考えたいということです。
理性VS理性はコミュニケーションそのもの(生み出すもの)であり、それをペスト(どこかからやって来るもの)から切り離したいということです。

「人間はすべてペスト患者である」
というのは、人間であることから誰も逃れることができないということだと思います。
だから気をゆるめてはいけないのだ、とタル―さんは続けます。
そして、こう発言するタル―さんの言葉はリウーさんによってひっくりかえされます。
「それが人間というものだ」
讃歌に変わるのです。
そしてそれがリウーさんの生き方(=反抗的人間)であると。
「自分の暮らしている世界にうんざりしながら、しかもなお人間同士に愛着をもち、そして自分に関する限り不正と譲歩をこばむ決意をした人間」小説のかなり冒頭でリウーさんの自己紹介の言葉として語られるものですが、端的にこの小説の主題を表している言葉だと思います。

ペスト(=反射)を放っておくと同じ行動を起こします。(=再生産)
それが続くと、「歴史は繰り返す」になってしまいます。
ですから、ペスト的な同じ道を繰り返さなくなるに、歴史家の視点が必要なのです。
その上で、当事者としては(例えば医師であろうとすれば)目の前にいるペスト患者を救っていく。

(ここからhongoさんの言葉をお借りします)

>リウーの戦いは言葉にすれば簡潔です。
>自らの中に潜むペストを表に出ないように押さえ込みつつ、世に蔓延するペストに感染

>した人を救おうとするのです。(内的および外的戦い)

>自分のさりげない言動が相手にどんな大きな影響を引き起こすか分からない。
>自分の影響力と言うものを意識して、それを常にコントロールすること。

難しいのは、それ自体がペストなのかそうでないのかは、事後的にしかわからない、というところです。
だから、わからないから何も言わないのではなく、コントロールしながら「誠実に」不条理に立ち向かっていく。自分が今ペストにかかっている「かもしれない」といつも仮定しながら発言なり行動なりをしていく。
自分には何が出来るか、自分は何をするのか。
医師の仕事はペストにかかった人間を「治す必要がある」と判断すること、「まず第一に健康」と、そう言い切ってしまう(必要なだけの)傲慢さなしには成立しません。
ペストであろうとなかろうと、、
だからリウーさんはこういったのだと思います。
「この先何が待っているか僕は知りません。(略)そのあとで、彼らも反省するでしょうし、僕も反省するでしょう。」

(やっぱり素敵です・・・!)

   ■■■

<コタールさんについて>

コタールさんの略歴と簡単な紹介。
酒類販売業か何かの少々アングラな商売をやりつつ、人目を避けるように暮らす。昔犯罪(詳細は不明)に手を染め現在警察に追われる身。その恐怖に絶望する形で狂言自殺を図った。隣人グランさんの通報により一命をとりとめる。ペストの流行で当局が機能しなくなったことにより恩恵を受けている。引きこもっていたり、突然社交的になってあちこちに仲間をつくってみたり、突然無差別に攻撃的な言動を繰り返すなどその人格はちょっとアレ。

前回の記事で重要登場人物であるタル―さんについて私は酷薄な程の紹介でお茶を濁しました。読書感想文のテーマであった「反抗的に生きる」を語る際にあまりにも長くなりすぎるので泣く泣く大好きなタル―さんについての大部分をカットしたのです。

おいおいおいコタールさんの話を聞かれているのに、何を言ってるんだとお思いの貴方、どうかしばらくご辛抱ください。

リウーさんとタル―さんは本編感想文で語ったとおり分身的に描かれる。
いわゆるヒロイズムを否定して本当のヒーローとは何かを求めたリウーさんに対し、
タル―さんが求めたのはココロの平安、共感によってひとりの聖者となることだった。
何にもに心を乱されることのない聖者とは何か。この道に通じるヒントを探してタル―さんは片っ端から街のあちらこちらで人物観察を続ける。彼の手帳は観察の記録帳である。

そんなタル―さんがロックオンしているのがコタールさんなのだ。

しかしコタールさんは、聖者とは似ても似つかぬ・・・彼はとにかく「嫌な感じのしょうもない人間」として描かれる。
タル―さんの保健隊の活動を揶揄するような発言「そんな活動、無意味ですよね~」を繰り返し、「ずっとペストが続けばいいのに」とまで言う。

そんなコタールさんの発言を、タル―さんは同調もしないが決して否定することもしない。タル―さんの道徳哲学においては「理解すること」が最重要なのだ。タル―さんは後にリウーさんにコタールさんについて「ペストを是とする部分だけはどうしても理解できない(=許せない)」と評する。

(正直いってタル―さんもかっこいいと思っちゃってる自分としてはここから先はちょっとなところであるが思い切って踏み込んでみたい)

なぜタル―さんはそんな嫌なコタールさんをわざわざ観察して丁寧に日記までつけているのか。しかも筆者によると、だんだんとタル―さんの記述は客観性を欠き、個人的考察の書き散らしが多くなっていったという。
(彼に対する個人的考察ってさ、批判とか・・・ぶっちゃけ悪口のことなんじゃないのかな?と疑ってしまうシーンです)

この部分より、タル―さんとコタールさんは共依存的な関係であるのではないかと私は見ている。
外部からの批判を過剰に恐れるコタールさんはタル―さんが自分を絶対に否定しないことを知って利用しているし、
タル―さんは自身の許すことのできない部分をコタールさんの姿の中に見てしまっている、つまり無自覚に目をやって“しまっている”。
穿ちすぎだろうか。

私がこう思った根拠は、聖者への道へのヒントとなるべき別の人物の観察を、ある出来事によって中断せざるを得なかったタル―さんの、「次に目の前に現れた男」がコタールさんだったからだ。
悪化するのがわかっているのにニキビをつぶさないではいられないように・・・(←わ た し で す ww)
途中タル―さんはコタールさんの観察をやめようとする。しかしその宣言が手帳に書かれたその後もコタールさんについての記述はなぜか続くのだ。
これ、彼がどうしてもコタールさんを見ることをやめられなかった証明ではないのか。
コタールさんと話したあとタル―さんがぐったりとした疲労感に襲われたという記述は、彼自身がこのことを自覚していて自分を責めた結果という可能性を示唆しているように見える。

(そして、このことに気づいたとき、もっと私はタル―さんを身近に感じた。村上春樹風の歌を聴けに出てくる「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」というセリフを思い出す)

リウーさんは、タル―さんは絶望の中に生きていると評した。
聖者になんかなれるわけがないからだ。解決策がないからだ。
しかしそんなタル―さんの存在を記憶として飲み込むことで、タル―さんはリウーさんの中に生き続ける。
そうして読者は安堵できる構成になっている。
リウーさんはひとり立ち続けること(敗北を続けること)それ自体によって全てに救いを与えているのだ。

否、全てではない。唯一、コタールさんだけがその救いからあぶれている。

コタールさんは街からペストが収束し全てが元にもどっていく事態に落ちこみ、実際に当局が機能を取戻して警察が事情聴取に来たことをきっかけに、遂には発狂して乱射事件を起こしてしまう。

リウーさんはこう語る。
「罪を犯した人間のことを考えるのは、死んだ人間のことを考えるよりもつらいかもしれない」
罪を犯した人間とは、罪を省みない人間のことであろう。
リウーさんは、自分にはコタールさんを救うことは出来ないと言っているのだ。そして、そのひとを、無知で、孤独な人間であると表現している。

コタールさんに救いがあるとするなら―――
それは、必ず彼も忘れられていくべき人間であるのに、筆者の手によって記録されることで存在が永遠となったという一点なのだろう、と思う。

   ■■■

<パヌルー神父>
偉いお坊さん。















「レモンちゃんしっかりして!」
あっ・・・スイマセン。
えーっと神父さんですよね。

パヌルー神父は、はじめ「書斎の人間」として描かれます。
書斎の人間・・・これですね、リウーさんの台詞なんですよ。
「パヌルーは書斎の人間です。人が死ぬところを十分に見たことがないから、真理の名において(簡単に)語ったりするんです」
ここちょっとどう思いますか、これ十分ワルグチはいってます。リウーさんもひとのことこんな風に言っちゃうんだー・・・・レモンちゃんはちょっとショックでしたよ。
(そして、リウーさんも出木杉君ではないんだなと安心しちゃいますw)

神父さんは、超熱心な宗教家で、保健隊の活動にもマジメに参加します。そして、リウーさんと一緒に、ある男の子の悲惨な最期を見届けるのです。
リウーさんはここでパヌルーさんに見事なやつあたりをかまします。「リウーさんかっこいいなあああ/////」と心酔しているレモンちゃんはもー吃驚仰天ですよ。
その後のリウーさんとパヌルーさんの対話はリウーさんの人間的苦悩が現れるシーンで、おすすめシーン度はかなり上位ですね~ 
単独者は その主観的にも 共同幻想(西洋社会の場合は =宗教)と一見対立しているように感じるものですがー、ほんとはね、それ違うんだよね、そんなことをはっきりと書いた重要なシーンでもあります。

書斎の人間でなくなったことをきっかけに、「ペストは人類への罰」という彼の終末思想は変節し、ペストは信仰の試金石であるという考え方となっていきます。
正直いってパヌルーさんの言葉は難解すぎるので引用できないのですがw
「司祭が医者の診察を受けることは矛盾している」ということです。
そりゃああんまり暴論です、リウーさんも異端すれすれであろうと結論づけています。しかし、彼は神父ですから・・・そうなんです、その位で信仰を失うような人間ではないんです。
パヌルーさんはペストにかかって死にます。
そして(あえて読んだひとにしかわからないように書きますが、)
私は、人間が起こせる最大の奇跡があればこういう形になるのではないか、と思っています。
あれは彼の信仰心がペストに勝った姿なのではないかと、思ってます。
ここは実際もっとよく読まないと判断できないところですので、この示唆までで許してください。


   ■■■

多分ですよ、多分。

カミュが語りたかったテーマは「反抗的に生きるっていうのはさ」です。
それはリウーさんの生き様で十分表現されている。そのリウーさんを表現するために不可欠なのがタル―さんで、そのタル―さんを表現するのにコタールさんが必要だったんだと思います。
そして、カミュがもし日本人だったなら、もしかしたらパヌルー神父は必要とされなかったのかもしれないです。一見宗教と単独者は対立構造にあるように見えるのですが、それは誤解であって絶対に敵対関係ではないということを表現するために神父が描かれたのではないかと。
反抗的に生きるというのはこの不条理の世界で感じられる希望の在り方であり、しかし唯一その光が届かない可能性があるとすればそれは罪をおかしたことを反省しないひと(コタールさん)なのである、と私は考えています。

もーーーーーなんていうか憎い構成の一言に尽きるんじゃないでしょうか。巧い、巧すぎるよ、、
私の帽子は確かに脱げやすいですがそれを差し引いてもちょっと何て言ったらわからない位に素晴らしい小説です。


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いえなんていうか本当にありがとうございました・・・
コメント本当に嬉しかったです。

返信にかこつけて、調子に乗って語りたいことをガンガン書いてみましたが、どうでしょうね、「強調しすぎは趣味が悪い」ってタル―さんも言っていたんですよねwww もういっそとことんエグくしてしまえという企画で悪乗りしてみました。

新潮文庫の後ろについている解説もまだ読んでいないのですが、これからのお楽しみにこれはしっぽり読もうかなと思います。

 

もうカミュはいいよ飽きたよさすがにといいながら「シューシュポスの神話」が明日届く、そんな不条理の世界に私は生きております。このまま飛ばしてペストブロガーになることもそれもまた人生だと思うので、って一体何を言っているのか、、もーね、バカかと。

 

以上、そんな感じです。ではまた。